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海洋研究部の歴史

創立

(クラブ創立30周年記念誌より抜粋)

70年代安保一色に染まっていた時代、安保から一線を外れ、当時の湯本氏、清沢氏が好きなダイビングをやろうとしたのが、当クラブの発端である。

湯本氏はスキンダイビングは多少やっていたことがあるが、アクアラングの経験はない。しかし、清沢氏は、募集すればアクアラングを知っている者も入るだろうと、さっそく学生課に設立を届け出た。

それから、湯本氏が通学電車で意見が合った小野氏と3人で、湯本氏のボロ傘に白いペイントをして、毎日、キャンパス(中庭)でクラブ員の募集をすることになる。

 第一号は、森田氏。「俺、4年だけど入れてくれるか。4年だとえばれるから。」

 第二号は、富岡氏。終始ボソボソ。

 第三号は、庵原氏、大舘氏、森本氏、市村氏の中杉グループ。「俺達は、ダイバーだ。」

 第四号は、真下氏。唯一真面目な人で、みんなの支えになった。

 第五号は、明星氏と田辺氏。田辺氏が町田氏を連れてきた。

 これ以降、学友等の血縁関係を基にクラブ員が増殖していった。

 設立当初のクラブは、海に哲学を持つ清沢氏、湯本氏と海をレジャー、ナンパの手段とも考える市村氏一派、その中で重鎮として真面目な真下氏で成り立っていた。

 このような中で、クラブの主導権は勢いのある市村氏一派(中杉グループ)にとっていかれた。彼らは、工藤先生からダイビングの指導を受けた愛弟子で、さらに工藤先生より甥っ子にあたる卯木氏をどうにかしてほしいと預けられていた。

 市村氏の発案で、フニフォームを作ろうということになった。また、この時期に以降クラブに伝わる挨拶のサイン、スティングレイのマークも考えられた。

(C)STINGRAY

 当時の練習は、海洋練習は早川で、夏合宿は三宅島で行った。その夏合宿で、借りてきたコンプレッサーで大舘氏が指を切る事件が起きた。

 意気消沈していたクラブ員に三宅島の高田氏が、ちょうど行われていた島の祭りの御輿を担がせてくれた。よそ者には素気ない島の人達が、クラブを受け入れ、酒を勧めてくれて大いに感激した。

 また、器材は当時六本木でウエットスーツを作成していた、サンコー(※当時のダイビングショップ)の佐藤氏の店に入り浸り(高田氏も働いていた)スーツ、タンクをただ同然で借りていた。

 このような環境で創生期のクラブの活動が始まっていったのである。以下に簡単に項目を挙げて創生期の活動を紹介する。

■海洋研究部の名前の由来
 なんのことはない、「海洋研究部」という名前だと漁協に怪しまれないだろうという発想から、あえてダイビングクラブという名称にしなかっただけである。

■赤沢の話
 工藤先生の助言で西風に強い東伊豆のポイントを探していたところ、なかなか良いポイントが見あたらなかった。たまたま松登苑で昼食を食わしてもらって事情を説明すると、民宿の人に「ここなら潜っていいよ。」と言われ、以来、赤沢に 合宿の拠点を置くことになる。

■当時のダイビング器材
 マリンブーツは地下足袋、レギュレターはダブルホースとシングルがあったが、いずれも残圧計・オクトパスなどない時代なので、エアーが無くなるとしぶくなる。タンクは初期には消火器改造の3連タンクが手に入ったようである。当時は、ダブルタンク・シングルタンクがあったが、いずれもサンコーから借りていた。

 学生は約1万5千円でマスク(一眼又はクレッシーサブのマスク)、ウエットスーツ(当然黒の両面スキン)、地下足袋、ウエイトを揃えて使っていた。

 コンプレッサーはサンコーからのレンタルで、上限は150気圧、ただし壊れていて150気圧入らない。そのうえ、一本のタンクを何人かで回し潜りしていた。

 ライフベストすら無く、緊急時の浮力確保はウエイトを落とすしかなかった。

■最初の春合宿
 当時、沖縄は日本に復帰してなく、最南端として与論島に決めた。

 東京から寝台列車で鹿児島経由で与論島に入る。以降、与論ツアーが続くことになる。当時の与論島は、タンクなどは無く海は素晴らしかった。日が傾くと島民は車座になり酒を飲みだし、道行くわれわれを呼び止め次々に酒を勧めるのであった。

■関東学生潜水連盟
 法政、獨協、水産、学習院、中央でこのころから学連の活動が始まった。当初、武蔵美も入っていたが、スピィアだけであったので脱退していった。学連内でダイビングを社会的に認知してもらおうと、競技会等の案もこのころから芽生えている。

■安全潜水 
 きつい練習をしているという他のダイビングクラブへ、練習方法などを見学にいった。「俺は20m潜れる。何人も鼓膜を破っている。」と自慢げに言っていた。「これは違う。私たちは、深く潜れなくてもよい。安全潜水を目指そう。」これが 代々の安全潜水の伝統につながっていくのだ。

■練習
 1年目は各自がバラバラに好き勝手な練習を行っていた。そのため、2年目に湯本氏 小野氏が中心になり練習のメニューを作った。1日のタイムスケジュール・ 練習の監視体制・合宿中の禁酒などである。(やはり、合宿中の禁酒に耐えかね集団脱走した者がいた。)

 朝練習
 ランニング(赤沢だったら北川まで)、最後はダッシュ。その後体操ではなくて腹筋、側筋、腕立て伏せ。

 海洋練習
 敬礼で気合を入れる。海に入り午前中は出てこない。(トイレも海の上、休憩も海の上。)メニューは遠泳・潜水・ウエイト練習等。

 浜で昼食。午後も午前と同様の練習。

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